出羽島歴史年表

 年  代               歴 史 事 項

       永禄以前にも人が住んでいた痕跡はあるが記録として残っておらず断定は
       出来ていない。
永禄(1558) 永禄という年号が記された墓が観栄寺に残っており、現況ではこれが
       出羽島最古の実在記録であろう。
天正3年   長曽我部元親が海部に侵攻
(1575)   中富川の戦いの後の1582年に阿波国を統一する。
天正13年  秀吉が阿波を平定し家臣蜂須賀家政に統治させる。
(1585)
慶長8年   徳川家康が幕府を開く。
(1603)   1615年記の墓が存在する。
寛永16年  鎖国令発行
(1639)
正保2年   牟岐の青木七郎兵衛が大島の番役を命じられ、その代償として大島
(1645)   出羽島を藩より与えられる。
慶安2年   出羽島、大島への移住を奨励したが移住するものはいなかった。
(1649)
寛政12年  郡代の佐和滝三郎は牟岐庄屋青木家8代伊助に出羽島移住を奨励する
(1800)   よう命ずる。牟岐浦庄屋民蔵は出羽島は不便な所ゆえ希望者はいないと
       報告するが郡代の意に反したとして牢屋に入れられる。仕方なく伊助は
       家来ら5人を連れ移住する。その後、三守、鳥見、小松、青木、島田の
       6軒となる。
文化1年   島の移住は漁具の無料貸し出しや税金半分などの免除により盛んになり
(1804)   戸数40軒となる。
文政1年   諸事情により戸数が激減する。
(1818)   1829年には沿岸にイギリス船が来る。
天保10年  青木伊助出羽島にて死去。
(1839)   1843年頃には戸数は更に増えて50戸になる。
弘化3年   出羽島の住人青木猪介が他に2人を連れて大島に移住する。
(1846)
嘉永7年   大津波起こる
(1854)
慶応3年   大政奉還
(1867)
大正4年   11月10日牟岐村が牟岐町に改称する
昭和9年   戸数160戸余りまで増える。
昭和17年  太平洋戦争勃発。末期には出羽島も戦火に見舞われる。
       大島に機銃砲跡がある。
昭和20年  牟岐〜出羽島航路が運輸省から正式に認可される。
昭和21年  12月21日未明、南海道地震が起こり数分後大津波が四国の沿岸を襲う。
       牟岐に襲来した津波が反復して出羽島にも襲来して多くの家屋が流された。
       またこの時1人の女性が流され不明となる。
昭和34年  山頂灯台新設(光度8500万カンデラ)
昭和40年  出羽島を含む室戸阿南海岸国定公園指定
昭和41年  出羽島電気線開通
昭和44年  8月7日に出羽島連絡事業有限会社が設立される。
昭和47年  大池のシラタマモが国指定の天然記念物に指定される。
昭和48年  出羽島水道敷設送水開始
昭和49年  戸数170戸、人口約700人となる
       遠洋漁業の基地としても盛況となり一時1000名程度まで増えた時期もあったが、
       次第に減少傾向となる・・・

昭和64年  昭和天皇崩御
平成元年   出羽島保育所廃所
平成5年   出羽島小学校休校
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平成23年  人口は100名前後まで激減・・・。
       2011年3月11日、東日本大震災発生。牟岐付近にも津波が押し寄せたが被害は出なかった。
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       以降現在に至る・・・